麦茶と赤とんぼ
朝起きると、寒さを感じるようになってきた。やがて暑い夏は終わる。やっとお仕舞いか、とほっとした気分の一方で、少し寂しさも残る。
次にやって来る季節は、秋だ。
秋といえば、あの話。赤とんぼの話。
いつか、しなければならないと思っていた話だ。どこかで、誰かに聞いてもらわなければならない話だ。
そんな秘密の話を、ゆっくりと、以下に記そう。
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僕の少しがさつな性格が祟ったのだろうか、何故か部屋は片付いていなかった。
丸まったトイレットペーパー。使用済みコンドーム。けん玉。メンコ。チンコ。様々なものが散乱し、足の踏み場も猫の額のような様だ。
しかし突然友人がやってきてしまったのだから仕方がない。僕はしぶしぶ田辺を部屋に招き入れ、茶を淹れた。
卓球部でライバルだった田辺は中国産の宇治抹茶をすすりながら、こう切り出した。「俺さ…結婚することになったんだ」
突然だった。
田辺のフォア級のスライスサーブに僕は動揺した。フォアの意味がいまだにわからないのだが。
しかしあくまで平静を装ってこう切り返した。
「え…う、嘘だろう!?そんな田辺が結婚する!?え?こ、こ、子供、え、家、家買ったの?ののの?」
我ながら鋭いスマッシュを返せたと思う。これぞ当意即妙というやつである。
田辺は困惑気味に、ゆるいバックハンドだ。チャンス。
「い、いや…そういう訳じゃないんだが。ただな、結婚するだけなんだ。結婚式はまだあげる予定は無いけど、一応君にも報告しようと思って。」
僕は連絡なぞ電話かインターネットを介してしてくればいいものをと思った。
しかしこれが田辺なりの回転をかけた球なのだと即座に把握し、口をつぐんだ。
ここでやられたらもうお終いだ。
…
「…どうした?」田辺は言った。
僕は思慮するうちに田辺の正確なショットをスルーしてしまっていたようだった。
無念。
「すまない、少しの間、生き忘れていた。…フィフティーン、ラブ」
「…は?」
次も田辺のサーブだった。シンプルだった。
僕は沈黙した。田辺の一球は、アウトのはずだった。
フォルト、と僕が言いかけた瞬間、田辺はまた次の球を打ってきた。「ど、どうした?突然、フィフティーンラブとか。大坂なおみか?」
「どうもこうもないじゃないか!第一、君は誰なんだ!?面識すらないだろ!」
僕は知らないうちに激昂してしまった。
余談だが、普段はこのようなことはない。不用心なプレーはしないように普段から心がけているからだ。
まるで卓球台のダンサー、大坂なおみである。
田辺も負けじとやり返して来る。
「知らないよ!たまたま歩いていたら家があったから、知り合いのふりをして入っていっただけさ!僕の気持ちもわからずに!
散歩していて電柱があったら近づきたくなるだろう!?マーキングしたくなるだろう?それと同じだ、中山!」
そう、田辺は犬だった。僕にはどうしてやることもできない。
いや、できなかったのだ。というのも、できなかったからだ。
今思えば残念でならないが、そういうこともある。
僕はまたもや黙ってしまった。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
結局、僕は何も答えることができなかった。
薄くなっていく田辺。
消えていく田辺。
なくなっていく田辺。
この瞬間、全てが、終わってしまった。
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先日、田辺の声を聞いた。
隣を走り去っていく自転車のサドルが、田辺の声を発していたような気がしたのだ。
「おーい、お茶。」
これが田辺の声であることは、誰の目にも明らかだった。
「おーい、お茶。」
今度は僕はすぐに答えることができた。
「エンジン、ブルンブルン。」
僕の的確な返しを聞いた田辺は、安心したように黙り、過ぎ去っていったようだった。
綺麗な夕日だった。
ちなみに僕は中山ではないが、それを言うのは野暮だろうと思ったので最後まで言えなかった。