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99歳のおっさんです。

麦茶と赤とんぼ

朝起きると、寒さを感じるようになってきた。やがて暑い夏は終わる。やっとお仕舞いか、とほっとした気分の一方で、少し寂しさも残る。

次にやって来る季節は、秋だ。

 

秋といえば、あの話。赤とんぼの話。

 

いつか、しなければならないと思っていた話だ。どこかで、誰かに聞いてもらわなければならない話だ。

 

そんな秘密の話を、ゆっくりと、以下に記そう。

 

 

 

 

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僕の少しがさつな性格が祟ったのだろうか、何故か部屋は片付いていなかった。

 

丸まったトイレットペーパー。使用済みコンドーム。けん玉。メンコ。チンコ。様々なものが散乱し、足の踏み場も猫の額のような様だ。

 

しかし突然友人がやってきてしまったのだから仕方がない。僕はしぶしぶ田辺を部屋に招き入れ、茶を淹れた。

 

 

卓球部でライバルだった田辺は中国産の宇治抹茶をすすりながら、こう切り出した。「俺さ…結婚することになったんだ」

 

 

突然だった。

田辺のフォア級のスライスサーブに僕は動揺した。フォアの意味がいまだにわからないのだが。

しかしあくまで平静を装ってこう切り返した。

 

「え…う、嘘だろう!?そんな田辺が結婚する!?え?こ、こ、子供、え、家、家買ったの?ののの?」

 

我ながら鋭いスマッシュを返せたと思う。これぞ当意即妙というやつである。

 

 

田辺は困惑気味に、ゆるいバックハンドだ。チャンス。

「い、いや…そういう訳じゃないんだが。ただな、結婚するだけなんだ。結婚式はまだあげる予定は無いけど、一応君にも報告しようと思って。」

 

僕は連絡なぞ電話かインターネットを介してしてくればいいものをと思った。

 

しかしこれが田辺なりの回転をかけた球なのだと即座に把握し、口をつぐんだ。

ここでやられたらもうお終いだ。

 

 

 

 

「…どうした?」田辺は言った。

僕は思慮するうちに田辺の正確なショットをスルーしてしまっていたようだった。

 

無念。

「すまない、少しの間、生き忘れていた。…フィフティーン、ラブ」

 

 

 

「…は?」

次も田辺のサーブだった。シンプルだった。

僕は沈黙した。田辺の一球は、アウトのはずだった。

 

フォルト、と僕が言いかけた瞬間、田辺はまた次の球を打ってきた。「ど、どうした?突然、フィフティーンラブとか。大坂なおみか?」

 

「どうもこうもないじゃないか!第一、君は誰なんだ!?面識すらないだろ!」

僕は知らないうちに激昂してしまった。

 

余談だが、普段はこのようなことはない。不用心なプレーはしないように普段から心がけているからだ。

まるで卓球台のダンサー、大坂なおみである。

 

 

田辺も負けじとやり返して来る。

「知らないよ!たまたま歩いていたら家があったから、知り合いのふりをして入っていっただけさ!僕の気持ちもわからずに!

散歩していて電柱があったら近づきたくなるだろう!?マーキングしたくなるだろう?それと同じだ、中山!」

 

そう、田辺は犬だった。僕にはどうしてやることもできない。

 

いや、できなかったのだ。というのも、できなかったからだ。

今思えば残念でならないが、そういうこともある。

 

僕はまたもや黙ってしまった。

 

 

二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 

 

 

結局、僕は何も答えることができなかった。

 

 

薄くなっていく田辺。

 

 

消えていく田辺。

 

 

なくなっていく田辺。

 

 

 

 

 

 

 

この瞬間、全てが、終わってしまった。

 

 

 

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先日、田辺の声を聞いた。

 

隣を走り去っていく自転車のサドルが、田辺の声を発していたような気がしたのだ。

「おーい、お茶。」

 

これが田辺の声であることは、誰の目にも明らかだった。

 

「おーい、お茶。」

 

 

今度は僕はすぐに答えることができた。

「エンジン、ブルンブルン。」

 

僕の的確な返しを聞いた田辺は、安心したように黙り、過ぎ去っていったようだった。

 

綺麗な夕日だった。

 

ちなみに僕は中山ではないが、それを言うのは野暮だろうと思ったので最後まで言えなかった。